相馬福島間の開通見通し
相馬福島道路
相馬から保原間平成32年度開通
福島民報10月29日
搬送物流の円滑化期待。
115号国道バイパスの福島道路の霊山インターチェンジ(仮称)から福島保原インターチェンジ(仮称)間の7.4キロは平成32年度末までに開通する見通しとなり、相馬市と伊達市保原町の約40キロ間がつながる。国土交通省が28日発表した。
◉相双地方から国道4号東北自動車道へのアクセスが向上し、救急搬送の時間短縮や物流の円滑化につながると期待される。
平成29年度以降に相馬港に運び込まれる液化天然ガスLNGの内陸輸送が円滑に行われると見ている。
◉相馬福島間の45.9kmのうち93.9パーセントにあたる43.1kmの開通時期が固まった。
内堀知事は1日も早い全線供用という要望をしっかり受け止めていただいた。
県は早期供用に向け、引続き関係機関とともに取り組んでいくとコメントした。
平成24年4月17日
東日本大震災震災以降、福島に共感し心からの支援を寄せてくれた世界中の人々に感謝します。
大地震、大津波、原子力災害は、多くの尊い命と穏やかだった私たちの暮らしを、非情にも奪い去りました。
深い悲しみや悔しさを抱え、住み慣れた土地を難民のように追われ、放射線の不安とも闘いながら元の暮らしを取り戻そうと汗を流し、家族離ればなれの生活をそれぞれが必死に毎日を生き抜いてきました。
しかし、残念ながら復興の道のりが長く遠いものであることが社会的にも共有されつつあります。
今こそ、私たちは、このような多重災害が、なぜ起きてしまったのか、しっかりと考えなければなりません。
今回の災害は、私たちに自然の脅威に対し科学技術を過大に評価していなかったか、我々の価値観を深く省みることを求めています。
福島はこれから如何に生きるか、福島の価値観が問われています。
そして、出会いの大切さを広げつなげてまいります。皆様、人生は出会いに尽きます。
何故なら人生の扉は他人が開くからです。世界の皆様に感謝し、誓います。
私たちは集中し、必ず、美しいふるさと福島を取り戻します。
私たちは必ず、活力と笑顔あふれる福島を築いていきます。
もし復興を成し遂げたなら、新たな福島の心は世界への感謝で満ちることになるでしょう。
今日からまた始まります。ありがとうございました。
福島の復興と日本経済の将来講演
三菱総研対木さん 福島政経懇話会で講演 2月23日福島民報
福島の復興と日本経済の将来
エネルギー産業への依存構造から、雇用のミスマッチが生じていた。
10年後20年後の明確な目標を設定し、復興プランを策定してほしい。
若い世代のために県内に特色ある高等教育機関の整備が必要になる。
本県の魅力を国内外にアピールすることも必要
買い手側への情報提供が少ないことが一因であるため、消費者と直接交流するなど粘り強く理解を求めるべき。
平成23年3月11日(金)発災の日
2時46分に発生した地震は、かつて体験したことのない大規模な地震動を予感させた。
激しい揺れが発生した直後たちまち机が激しく揺れ動き、立てかけてある書類は吹き飛び、女性の悲鳴が上がった。
激しい揺れに1分間耐えた。そろそろ収まるだろうとよんでいたが第2派の揺れが来た。
いつどこから建物が倒壊するのか予想するようになった。秒ごとに天井から崩れるのか足元から崩れるのか上下を交互に注視していた。
2分経った。いつまで続くのか。長く激しい揺れに何とか耐え切った。今度こそ収まると期待した。
しかし、今までに倍する揺れが来た!
それを合図に何とか収まっていたロッカーの書類がこんにゃくか豆腐のように一気に飛び出した。
同時にガラスに書類がぶつかりバリバリと割れ、どんどんと机が揺れ、天井の照明が落下した。
さらに悲鳴が増す!
実は、この時、3階の皆は揺れが激しく、逃げることができなかった。
しかし、1階の面々は避難していたのだ。2階は半分ほどが避難できたようだった。
ついに図書室と更衣室にしていた連結ロッカー群が倒壊した!
机はマージャンの洗牌のようにかき混ぜられ、書類は床に吹き飛んで乱切りキャベツのように積み重なった。
今度こそいつ死んでもおかしくないと覚悟を決めたが、決めた覚悟が持たないほど長い!長い!長い!ゆれ!ゆれ!ゆれ!
職員は大半が床にしゃがんでこらえていた。果てしないゆれが収まったのは3分後だったと思われる。
ジェットコースターを降りたような放心状態の中、皆一声もない。
思わず「みんな大丈夫か!怪我はないか? 避難! 気をつけて退避!○○君誘導しろ!」と叫んだ。
しかし、○○君は、倒壊したロッカー群に動けなくなっている人がいないか確認に向かった。
ロッカーは山のように崩れており、上に登らないと向こう側は、確認できない。
避難路を確保するため、しゃがんでいた職員の進路に落ちていたものをどけた。
照明が落下したガラスの破片を踏みしめて避難する音が耳に残っている。
2階階段の防火扉は激しくゆがみ通路が狭くふさがれており、避難中に余震が発生しないことを祈った。
こんなときにも女性に気を使う男は私以外にもいるものでショック状態になった女性の方を抱いて避難する者もいた。
中庭に集合したときには、またしても激しい余震が襲った。安全確認のため人の点呼を始めた。
このとき、実は重大な事態に陥っていた。今しがた逃げてきた復旧活動拠点になる事務所が使用できない状況となっていた。
柱が圧壊し、通信手段も失われていたのだ。
拠点や通信手段、水、電源、食料、ガソリン等すべてのバックアップがなかったことを痛感することになる。
(続く)
当時、双葉郡の東京電力福島第一原子力発電所では、地震と津波により全電源が喪失され、
追加で急派された電源車も夜半に到着したものの差込口が合わずに役に立たなかった。
SPEEDIをいつどう使ったらよいか運用は難しかったでしょう。
しかし、津波襲来後全電源喪失し、直ちに警報メールが関係者に流れ家族から友達と流れて一気に避難が始まったようです。
政府からは当日すでに70台のバスが双葉町と富岡町用に手配され現地に到着していましたが、避難に利用できたのは翌日でした。
行政関係者は、テレビでしか情報を入手できませんでしたが、一部の自衛隊員や警察官は、自発的に役場に叫んで回った方もおられました。
原発近くのオフサイトセンターに入ることもできず、関係者が現地で指揮をとることもできなかった。
運用も拠点もバックアップがなかった。原発内部には瓦礫が通路をふさいでいたため、決死隊の自衛官が突入して経路を確保したようです。
警察官は、白い降下物を目撃していました。
誘導していた警察官は、この事態を知っており、未曾有の事故にあたり、情報の伝達に問題がありました。
国民には十分な情報が流れていなかったようです。
最前線の警察無線だけが日本の首相官邸の情報収集窓口であったと聞いています。
しかし、津波襲来後全電源喪失し、直ちに警報メールが関係者に流れ家族から友達と流れて一気に避難が始まったようです。
政府からは当日すでに70台のバスが双葉町と富岡町用に手配され現地に到着していましたが、避難に利用できたのは翌日でした。
行政関係者は、テレビでしか情報を入手できませんでしたが、一部の自衛隊員や警察官は、自発的に役場に叫んで回った方もおられたと伺っております。
原発近くのオフサイトセンターに入ることもできず、関係者が現地で指揮をとることもできなかった。
運用も拠点もバックアップがなかった。原発内部には瓦礫が通路をふさいでいたため、決死隊の自衛官が突入して経路を確保したようです。
誘導していた警察官は、この事態を知っており、「みなさん避難してください。」と誘導していました。
それにしても情報機能と指揮命令系統が機能しなかったことはなはだしい。
バックアップが無いという事態の中でも東京電力福島第一原発の非常用電話と警報メール、数少ない一部の警察無線は機能していたが、国民への情報連絡が制約となった。
一方、アメリカには伝えていたようです。
原発の設計水平震度は不明ですがアメリカで設計された原発プラントを直輸入したのであれば、地震襲来時にすでに配管が損傷していた恐れもあったと思われます。